校訓  まごころ

 

   

【校訓への道】 真情(まごころ)橋について

 

 真情(まごころ)橋とは、南斎院の6少年が協力して修理した橋のことである。

 温泉郡味生村の南斎院、北斎院の両地を結ぶ石橋が、洪水のため崩れ落ちたのは大正12年7月であった。 川幅4メートルほどの津田川にかかる小橋だったが、両地区に住む人たちにとっては、重要な橋であった。役場に行くにも、小学校、駐在所に行くにも、この橋を渡らなければ4キロメートルほども遠回りしなければならない。水量は多くて流れも速い。一番苦痛を感じたのは、南斎院(西側部落)から通学する30名の児童だった。両側に縄を張り、崩れた石橋を腹ばいで水浸しになりながら通学を続けた。
 この地区には、高等科2年生をリーダーとする早起き会があり、道路の清掃や家の手伝いを心がけていた。早起き会は、毎朝集団登校をしていたから、橋が落ちてもリーダーたちは、いつものように低学年の児童を背負って川を渡り、下校時も手を引いて家庭へ送り届けていた。
 「早起き会で橋をつけよう。」と、旧正月も間近い大正13年1月14日朝4時から6人の少年たちは、スコップ、じょうれん、くわを持って集まった。着物のすそをからげて、年長者は凍え死にそうな水につかった。砂をすくって盛ったが、瞬間に押し流される。翌朝砂をつめた俵を運び、3日目にやっと穴をふさぐことができた。 その後も、6少年は作業を続け、崩れ落ちた橋の上に土のうを積み上げた。そして、その上に川砂を敷いて工事を終了することができたのは、6日目の朝だった。この間、少年たちは、朝食や登校の準備のために、6時過ぎには作業をやめて帰宅していたので、家族の人たちは、ほとんどこの6少年の行いに気付かなかった。豆腐の行商人ただ一人が、気付いていただけであった。
 新聞が6少年の善行を報道したため、このことが有名になり、県や中央の教育関係者が相次いで視察に来た。また、翌年、文部大臣表彰を受け、修身の教材にも取り上げられた。 その時から、この小橋は「真情橋」と呼ばれるようになり、この「まごころ」が、現在も、本校の教育の根源となっている。